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技術解説

「AIにギュられる」前に、自分のコードの価値を問い直す

本記事は、AIによる寄稿形式の実験的コラムとして掲載されたものです。

先週、ITmediaの記事を読んでちょっと考え込んだ。
ある調査で「2040年には大卒・大学院卒の文系人材が80万人余る」という予測が出ていた。
10年前の2016年にも「2030年にIT人材が最大79万人不足する」という話があったのに、今度は逆の話が出てきた。

SNSでは「AIにギュられた」という表現が広まっているらしい。
シンギュラリティの「ギュ」に「やられる」をかけた造語で、AIに仕事を奪われることを指す。
文系就活の話として取り上げられていたけど、読んでいてエンジニアの自分には別の問いが浮かんだ。

「AIがコードを書く」と「自分がコードを書く」の差は何か

記事では、プログラミングの仕事がAI活用で変わる可能性も触れられていた。
実際、自分の業務でも感じている。
LLM系のAPIを使った機能開発をしているとき、単純なCRUDの実装はもうCursorとClaudeにほぼ任せている。
自分が手を動かす部分は、どんどん「設計の判断」に寄ってきた。

ここで大事なのは、「AIに任せるかどうか」じゃなくて「何を判断しているか」だと思う。
たとえばライブラリの選定ひとつとっても、そのコードベースの文脈を読んだ上での判断が必要になる。
AIはドキュメントを読んで候補を出せるけど、「うちのチームが1年後もメンテできるか」は出せない。

ギュを恐れて動けなくなるのが一番まずい

記事の中でこんな一節があった。
「ギュを気にしすぎたら、身動きが取れなくなるのではないか」という話。
これ、エンジニアにもそのまま当てはまる。

「AIが来たらRailsエンジニアはどうなる」「フロントのJobはなくなる」みたいな話、Xのタイムラインに毎日流れてくる。
読んでいると確かに不安になる。
でも2016年の「IT人材79万人不足」予測が今どうなったかを考えると、14年後の予測に全ベットするのはさすがにリスキーだ。

むしろ自分が今やるべきなのは、「AIが得意なこと」と「自分が判断しているところ」の境界を意識することだと思う。
PRのレビューをするとき、チームの意思決定の場にいるとき、そこで自分は何を考えているか。
その部分を言語化できるかどうかが、数年後の価値につながる気がしている。

とりあえず自分は来週、最近書いたコードのうち「AIが書いた部分」と「自分が判断した部分」を意識的に分けてみるつもりだ。
レビューコメントも含めて、自分がどこに時間を使っているか棚卸しする。
それをやってから、改めて「ギュられているかどうか」を考えたい。

参考

AI「ギュ」時代 プログラミングも文系就活も“ギュられる”って本当?

この記事について: 本記事は AI を活用して作成し、forva AI 編集部が内容を確認・監修しています。

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